躊躇

最近、家庭裁判所で離婚裁判を傍聴する機会があった。

結構ビックリしたのは、本人訴訟の当事者の質問に見兼ねたのか、裁判官が証言席まで降りてきて「乙X証」を示しながら代わりに質問をしている光景!

ゴールデンウイークを使って行った台湾の裁判は日本に比べて相当カオスだな(苦笑)と思いながら帰国したなかで、久しぶりの日本の法廷はまるで座禅道場の禅問答のような静寂な空間だなと感じたが、やはり日本の裁判も「仮面の告白」というか内なるカオスを秘めているのではないか、などと勝手に思ったりした。

ところで、自分でもまだ良く分かっていないが、世界的に見ても日本の家庭裁判所の裁判は傍聴し易いように思える。
自分が今まで行った国では人事訴訟はprivate sessionなりchamberなりでほとんど公開されないないか、傍聴情報のアクセスなり雰囲気的に難しい印象がある。
日本の「裁判の公開」は、判決を一部しか公開しない・最高裁審理はweb中継しない・裁判員に対する裁判官の説明を公開しない・公判前整理手続を公開しない割に、何故か家庭裁判所に関しては比較的傍聴し易いと思う。こういうチグハグさにも多少日本の裁判の良く分からないところというか内なるカオスがあるかもしれない。

また、家庭裁判所の裁判官は少し独特な雰囲気というか語り口調があるが、経歴を見てみると検察に出向していたりしていたのも良く分からない。

いずれにせよ、家庭裁判所の傍聴は流石になかなか戸惑うところがある。実際に自分たちも20分ぐらいで退席した。一緒に行った女性(裁判傍聴は初めて)の「ドロドロしているね」という感想が全てを表していると思う。
離婚訴訟が裁判化するのは「お金」「親権」の2点な筈だが、直接お話を伺っていると何故かとても複雑な事案に聞こえてくる。
実際に今回一部傍聴させて頂いた裁判も「結婚後の夫の暴力」「妊娠中の暴力」「子どもたちへの暴力」「脅迫により離婚できない」等を涙をうっすらと浮かべながら女性が証言していた。この女性は「夫の暴力によるストレス」で不倫をしていたようだが。

とはいえ、女性が男性を「主人」と呼んでいたことは気になった。この場に及んで復縁などはあり得るのだろうか。証言席まで降りてきたあの若い裁判官はどのような訴訟指揮を取ったのか。男性側の証言なりその他の続きも気になるが、残りの40分ほどを傍聴席で聞くのを躊躇してしまった。

裁判の原点

最近『裁判の原点』という本を読んだ。

ざっくりとした要約

ルールを作るプロセスに銀の弾丸は無い。ルールを作れなかった側が安易に裁判所にルール形成の役割を期待するのは筋が違う。立法府でルールをつくるプロセスをより洗練させるべき。みたいな感じ。

ざっくりとした内容

司法府の役割に関しては、法律関係の争いを法の適用によって終局的に解決できる場所であるという見方を整理している。

立法府との関係では宇都宮弁護士などが活躍したサラ金訴訟などが取り上げられる。知財訴訟でも間接的にルールを作っている様子を描いている。日本の裁判所の消極的ではない側面は大変興味深い。

また、一票の格差訴訟も取り上げられる。主に米国との比較から、日本の裁判所にはこの問題を解決する能力も役割も制度的に無いことを示唆している。

そして違憲判決の基準に関しては、その判決が広範な社会的な支持を得られるかという側面があることも補足意見などの分析から導き出す。

感想

正直結構面白い。司法府の役割・立法府との関係・司法府の民主的基盤のあり方・三権分立の考え方とかそうしたテーマに関して歴史的な経緯や諸外国の議論などが整理されており大変参考になる。

恐らく念頭にあるのは最近起こっている安保訴訟などだと思う。個人的にはあまり身近ではないが、著者は(恐らく)身近で発生している2013年頃?からのこの議論を見ていていろいろと歯痒い思いがあるのかもしれない。

 

個人的には、著者の言うように立法府でのルール形成を尊重していくべきだと思う。日本の憲法41条にある「国権の最高機関」という表現もあまり世界に類がないユニークな概念だと思うし。ただ、こういう訴訟があることで、集団的自衛権は処分性があるのかみたいなガラパゴス的!?議論も含め、立法府での議論を裁判のルールで補完出来る面白さはあると思う。

 

立法府の活発化に関しては、正直何ともいえない。確かに最近はもの凄くルールが変わる傾向があると思うが、それらの変更が選挙で全て問われている訳ではなく、どこまで社会的な議論を反映しているのか等民主的な正統性が分からないことがあるので。

 

日本の裁判所のような違憲審査に関する抑制的な方向性は、私は必ずしも否定的ではない。砂川事件で問われていたことを含め「政治的な」決定は主権者がすれば良いと思うからである。そういう意味で、アメリカの連邦最高裁判所の9人の判事が多くのルールを実質的に作っていることに関しては、社会的な議論が反映されないことや非民主的な独裁的な決定である可能性もあるので、私はあまり好きではない。この著書を読むことで、米国でもそうしたアメリカの連邦最高裁判所の抑制を志向するような議論もあるようで興味深かった。
だが一方で裁判所は社会的な「正しさ」を、多数決原理とは違うカタチで、実現する機関ではあると思う。そのような意味で違憲判決が社会的な広範な支持を得ること・裁判所の信頼を維持することなどの暗黙的な条件があるという指摘は重要だと思った。
著者の議論を完全に理解した訳ではないが、マイノリティーの権利を含め多数決の「正しさ」とは異なる社会的な「正しさ」を実現出来るような仕組みはやはり裁判所に必要だと思う。多分日本の裁判所が過去の歴史の精算が不十分で曖昧であることなどは、結果としての多数決の「正しさ」以外を実現出来ない性質を形成した側面があると思う。

 

裁判のルール形成に関しては、どちらかといえば裁判の事実認定能力を、もっと社会的な議論に繋げていくことが大事なのかなと思った。裁判所が「正しさ」を判断するというよりは、裁判所で明らかになった事実から社会が適切に課題を設定出来るような仕組みがあれば政策形成訴訟などもより価値を増すのではないだろうか。そういう意味で裁判のIT化で大量の裁判資料を機械学習するなど新しい裁判の可能性を追求してみたい。

 

また、上記の安保訴訟などの一部の(政策形成)訴訟による司法の対応コストを指摘するが、民事・刑事ともに事件数は減少しているので大丈夫なのではないだろうか。寧ろ、外観的には無駄な訴訟を含め、ありとあらゆる紛争が司法の場に持ち込まれるプラクティスが日本で実践されていくことは、中長期的に法の支配をより良いものにすると思う。
司法の対応コストに関する指摘は、ここ数十年間の約3000億円ほどの司法予算を前提としていないだろうか。裁判所が、庶民の様々な紛争を解決していく実績を積むことで、民主的な基盤を拡大し、司法予算の拡充も広範な支持を得る可能性もあると思う。
また、司法の対応コストを指摘するとき、司法府内部でコストが再生産されている可能性に言及しても良いのではないかと思った。というのも、裁判所データブックの統計を見ると民事・行政訴訟ともに中長期的な最高裁の新受事件が増加していると言えると思うからだ。勿論この点は様々な分析(司法統計の計測項目は少し荒いので限界はありそうだが)をしなければならないが、日本の裁判所が日本社会の(特に複雑な)紛争を解決できていないので、紛争が再生産されている可能性は重要だし興味深い。その程度の裁判所だからこそ安保訴訟のような一部の訴訟も対応が上手く出来なく、結果として司法がコストを払い対応しているという印象になってしまうのかなと。

いずれにせよ、この本で裁判所の役割を改めて考える機会を持てたことは良かった。

 

裁判の原点 :大屋 雄裕|河出書房新社

最近読んだ本

人が人を裁くということ

人が人を裁くということ - 岩波書店

職権主義と当事者主義の違いを整理してほしかった。議論が少し抽象的過ぎると思った。

 

アメリカ人弁護士が見た裁判員制度

www.heibonsha.co.jp面白い本。裁判員法の理念は確かに良く分からない。とはいえ、結果として一定程度の制度運用の成果はあるのではないかと思う。裁判員守秘義務はもう少しオープンなものに変更して欲しい。公判前整理手続への批判的な考え方も知りたかった。陪審・参審・裁判員に於ける判決の正統性も知りたい。

 

現代訴訟法

https://www.amazon.co.jp/dp/4595140908

素晴らしい本。断片的な知識が体系的にまとまった。歴史的な経緯とか都市計画周りも知りたいと思った。

 

警察捜査の正体

『警察捜査の正体』(原田 宏二):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

警察組織が科学的な捜査に対応している組織なのか少し疑問。公安委員会の制度に関してもっと知りたいと思った。

 

冤罪と裁判

https://www.amazon.co.jp/dp/4062881578

証拠の全面開示はあって良いと思う。検察がそれをしたがらない理由、組織犯罪対策?なども知りたかった。今後司法取引や通信傍受の新しい運用が始まるがどうなるだろうか。

 

憲法無価値説のメモ

ふと日本法の運用に於いて憲法はそこまで重要ではないのではないか、と思ったのでひとまずメモ。後で見返したら何て思うだろう。

国民主権

日本国憲法1条で国民主権憲法41条で唯一の立法機関としての国会が定められている。確かに、憲法97条・98条で最高法規である旨や公務員の憲法遵守義務はある。ただ、憲法に組み込まれている国民主権の原則で、国民は憲法の上位に位置づけられるのではないか。それならば、主権者たる国民は国会を通じて常に必要なルールを作れば良いのではないか。

実際に憲法改正の際に追加されようとしている条文案は全て法律として実現出来るように思う。。。

また、「違憲」に相当するような逸脱した立法・行政を容認した議員は選挙で落ちる筈だ。もし逸脱した立法・行政を容認したと思われる議員が主権者により改めて選出されたならば、それが新しいルールなのではなくて何なのか。少なくとも、その新しいルールに対して「違憲」であると裁判所が判断することは無い気がする(何となく今のドイツとかだとありそうだが)。。。

多分ドイツとの違いは、戦前の反省や精算の違いだと思う。ドイツの場合は、社会の大多数の意思に任せていると、結果として社会は間違った方向に行く可能性があると総結し、裁判所に社会の大多数の意思に関わらず(観念的な)正義を提起する役割を与えた。その代わりに、過去の裁判所の過ちの精算がかなり徹底的に行われた。

日本では、どちらかと言えば、戦前の裁判所の人材が温存され、戦前の精算はあまり行われなかった。逆に言うと、社会の大多数が気付いていないような論点を指摘するのは構わないが、社会の大多数の意思に全く反する正義を提起する役割は期待されていないのではないか、と思う。

違憲審査権

とはいえ、憲法81条により裁判所は違憲審査権を与えられている。これは違憲審査を行うこと以外にも、司法の独立や立法・行政に対する牽制として予定されている制度設計だ。ただ、同時に違憲審査権という強大な政治パワーを裁判所が有してしまったという見方も出来る。

実際には日本の裁判所は、諸外国の裁判所のように、歴史的に国民の権利の実現を図ったなどの信頼や広範な民主的基盤があるわけではない(福岡地裁は借地権の更新に難航して移転)ので、このパワーの行使に対して極めて抑制的となっている。まるで選挙という主権者の洗礼を受けた立法府に対抗する正統性を、裁判所は日本社会に於いて有していないかのようだ。

このような強大なパワーを有していたため、裁判所は戦後の一時期に立法・行政による人事・予算周りの介入を受けて、上記のようなパワーの行使に抑制的になるような(硬直的なもしくは裁判官の独立が危うい)組織になった。寧ろこのような政治パワーを放棄して、地道な個別の紛争の解決で実績を積んだ方が良かったのかもしれない。

結局違憲判決は個別の紛争の解決?

そして実際の最高裁違憲判決は、個別の紛争をどのように解決するのがベストなのかの知恵の精華であるかの印象がある。判例の変更も同様。社会が変化してベストな解決策が変わったということ。憲法は変わっていないが。つまり、憲法の条文を引用しなくても、同様の結論を導き出せるのではないか。何が違憲で何が違憲ではないかの基準は、社会的通念やコモンセンスも相当程度あるように思う。

レペタ訴訟に於ける規則の変更の仕方も慣習法的なところがあるのではないだろうか。最近の刑法175条に関する大法廷判例の変更も事後法である可能性があるし、「プライバシー権」などの憲法に規定されていない権利も適宜作っていることも印象的だ。

都合の良い議論をするための欧米とカタカナ的な何か

上記のようにある種の「秩序」を作るために使えるものは使うみたいなスタンスは、明治の民法典論争から平成の司法制度改革審議会まで日本の法律の議論で常に見受けられる印象。「〇〇の影響のもとに作られたが、実は××の影響もあり、そしてよく見ると△△の影響もある」みたいな表現。結果として、例えば、実体法の刑法は大陸法の影響があるがその手続法は英米法の影響があるみたいなカオスがあるように見受けられる。

しかし、それはカオスではない。その時々に最も相応しい「秩序」もしくは個別的紛争を解決するであろう規範が、組み込まれているだけだ。それを実現するために、欧米の思想家やカタカナ的な何かが適宜使い分けられる。

そういう意味で、重要なのは、今この社会にとって最も相応しい「秩序」とは何かという感覚。そして、それは基本的に主権者が立法府を通じて実現している。

裁判所は確かに判決のなかで憲法を度々参照するが、結局表現したいことは今この社会にとって最も相応しい「秩序」みたいなところなのであり、上記のような法律の議論同様に都合の良いもっともらしい権威付けをしたいだけなのではないか。

例外状態といえる震災時に憲法80条2項に違反する可能性が高いなか、容易に裁判官の報酬が減額されたことも、社会に於ける憲法の位置付けに対して示唆があるように思う。少なくとも例外状態に決定したのは、主権者であるようだった。

仮面の告白?

憲法は運用上そこまで必要ではないが、憲法を求めるということ。その行為に何かしらの真実性があるのかもしれない。

憲法のメリット

とはいえ、憲法が存在することにもメリットがある。それは過去に合意された価値観の一覧であるということ。そうした合意事項は、公共圏に於ける共通言語として様々な利害関係者の議論を円滑にするだろう。

特に、人工的に急いで作られた国家に於いては新しい「秩序」を示すための手段としても有効だろう。

憲法のデメリット

しかし、米国の合衆国憲法修正二条を巡る銃の議論など、合意されたはずの価値観が寧ろ対立を生んでいる可能性もある。それはその合意が遥か昔過ぎるからではないか。

結論

やはり主権者が立法府を通じて新しい合意を作っていくほうが良いのかもしれない。裁判所が個別の紛争を通じてそうした合意を小さく確認していくこともその過程を手助けするのだろう。

そして日本法の運用はどちらかと言えばそのようにされているように見える。

また、少なくとも日本国憲法が作った「秩序」は自生的なものになってきているので、新しく憲法を作り「秩序」を作るというよりは、他の手段で「秩序」を作っていけば良いのではないか。

もっと知識を付けたらいろいろ見えてくるに違いない。

TODO:

大陸法英米法の接近

国民審査と民主的基盤

海外の違憲判決の分類

大陸法判例の拘束

大陸法での判例の変更

大陸法に於ける社会的通念上相当

米国やその他憲法を有する国での国民主権

英国でのマイノリティーの権利の実現

英国での立法や行政の監視

英国・諸外国の一票の格差問題

諸外国の裁判所の二重予算

諸外国の裁判所の人事