憲法無価値説のメモ

ふと日本法の運用に於いて憲法はそこまで重要ではないのではないか、と思ったのでひとまずメモ。後で見返したら何て思うだろう。

国民主権

日本国憲法1条で国民主権憲法41条で唯一の立法機関としての国会が定められている。確かに、憲法97条・98条で最高法規である旨や公務員の憲法遵守義務はある。ただ、憲法に組み込まれている国民主権の原則で、国民は憲法の上位に位置づけられるのではないか。それならば、主権者たる国民は国会を通じて常に必要なルールを作れば良いのではないか。

実際に憲法改正の際に追加されようとしている条文案は全て法律として実現出来るように思う。。。

また、「違憲」に相当するような逸脱した立法・行政を容認した議員は選挙で落ちる筈だ。もし逸脱した立法・行政を容認したと思われる議員が主権者により改めて選出されたならば、それが新しいルールなのではなくて何なのか。少なくとも、その新しいルールに対して「違憲」であると裁判所が判断することは無い気がする(何となく今のドイツとかだとありそうだが)。。。

多分ドイツとの違いは、戦前の反省や精算の違いだと思う。ドイツの場合は、社会の大多数の意思に任せていると、結果として社会は間違った方向に行く可能性があると総結し、裁判所に社会の大多数の意思に関わらず(観念的な)正義を提起する役割を与えた。その代わりに、過去の裁判所の過ちの精算がかなり徹底的に行われた。

日本では、どちらかと言えば、戦前の裁判所の人材が温存され、戦前の精算はあまり行われなかった。逆に言うと、社会の大多数が気付いていないような論点を指摘するのは構わないが、社会の大多数の意思に全く反する正義を提起する役割は期待されていないのではないか、と思う。

違憲審査権

とはいえ、憲法81条により裁判所は違憲審査権を与えられている。これは違憲審査を行うこと以外にも、司法の独立や立法・行政に対する牽制として予定されている制度設計だ。ただ、同時に違憲審査権という強大な政治パワーを裁判所が有してしまったという見方も出来る。

実際には日本の裁判所は、諸外国の裁判所のように、歴史的に国民の権利の実現を図ったなどの信頼や広範な民主的基盤があるわけではない(福岡地裁は借地権の更新に難航して移転)ので、このパワーの行使に対して極めて抑制的となっている。まるで選挙という主権者の洗礼を受けた立法府に対抗する正統性を、裁判所は日本社会に於いて有していないかのようだ。

このような強大なパワーを有していたため、裁判所は戦後の一時期に立法・行政による人事・予算周りの介入を受けて、上記のようなパワーの行使に抑制的になるような(硬直的なもしくは裁判官の独立が危うい)組織になった。寧ろこのような政治パワーを放棄して、地道な個別の紛争の解決で実績を積んだ方が良かったのかもしれない。

結局違憲判決は個別の紛争の解決?

そして実際の最高裁違憲判決は、個別の紛争をどのように解決するのがベストなのかの知恵の精華であるかの印象がある。判例の変更も同様。社会が変化してベストな解決策が変わったということ。憲法は変わっていないが。つまり、憲法の条文を引用しなくても、同様の結論を導き出せるのではないか。何が違憲で何が違憲ではないかの基準は、社会的通念やコモンセンスも相当程度あるように思う。

レペタ訴訟に於ける規則の変更の仕方も慣習法的なところがあるのではないだろうか。最近の刑法175条に関する大法廷判例の変更も事後法である可能性があるし、「プライバシー権」などの憲法に規定されていない権利も適宜作っていることも印象的だ。

都合の良い議論をするための欧米とカタカナ的な何か

上記のようにある種の「秩序」を作るために使えるものは使うみたいなスタンスは、明治の民法典論争から平成の司法制度改革審議会まで日本の法律の議論で常に見受けられる印象。「〇〇の影響のもとに作られたが、実は××の影響もあり、そしてよく見ると△△の影響もある」みたいな表現。結果として、例えば、実体法の刑法は大陸法の影響があるがその手続法は英米法の影響があるみたいなカオスがあるように見受けられる。

しかし、それはカオスではない。その時々に最も相応しい「秩序」もしくは個別的紛争を解決するであろう規範が、組み込まれているだけだ。それを実現するために、欧米の思想家やカタカナ的な何かが適宜使い分けられる。

そういう意味で、重要なのは、今この社会にとって最も相応しい「秩序」とは何かという感覚。そして、それは基本的に主権者が立法府を通じて実現している。

裁判所は確かに判決のなかで憲法を度々参照するが、結局表現したいことは今この社会にとって最も相応しい「秩序」みたいなところなのであり、上記のような法律の議論同様に都合の良いもっともらしい権威付けをしたいだけなのではないか。

例外状態といえる震災時に憲法80条2項に違反する可能性が高いなか、容易に裁判官の報酬が減額されたことも、社会に於ける憲法の位置付けに対して示唆があるように思う。少なくとも例外状態に決定したのは、主権者であるようだった。

仮面の告白?

憲法は運用上そこまで必要ではないが、憲法を求めるということ。その行為に何かしらの真実性があるのかもしれない。

憲法のメリット

とはいえ、憲法が存在することにもメリットがある。それは過去に合意された価値観の一覧であるということ。そうした合意事項は、公共圏に於ける共通言語として様々な利害関係者の議論を円滑にするだろう。

特に、人工的に急いで作られた国家に於いては新しい「秩序」を示すための手段としても有効だろう。

憲法のデメリット

しかし、米国の合衆国憲法修正二条を巡る銃の議論など、合意されたはずの価値観が寧ろ対立を生んでいる可能性もある。それはその合意が遥か昔過ぎるからではないか。

結論

やはり主権者が立法府を通じて新しい合意を作っていくほうが良いのかもしれない。裁判所が個別の紛争を通じてそうした合意を小さく確認していくこともその過程を手助けするのだろう。

そして日本法の運用はどちらかと言えばそのようにされているように見える。

また、少なくとも日本国憲法が作った「秩序」は自生的なものになってきているので、新しく憲法を作り「秩序」を作るというよりは、他の手段で「秩序」を作っていけば良いのではないか。

もっと知識を付けたらいろいろ見えてくるに違いない。

TODO:

大陸法英米法の接近

国民審査と民主的基盤

海外の違憲判決の分類

大陸法判例の拘束

大陸法での判例の変更

大陸法に於ける社会的通念上相当

米国やその他憲法を有する国での国民主権

英国でのマイノリティーの権利の実現

英国での立法や行政の監視

英国・諸外国の一票の格差問題

諸外国の裁判所の二重予算

諸外国の裁判所の人事