裁判の原点

最近『裁判の原点』という本を読んだ。

ざっくりとした要約

ルールを作るプロセスに銀の弾丸は無い。ルールを作れなかった側が安易に裁判所にルール形成の役割を期待するのは筋が違う。立法府でルールをつくるプロセスをより洗練させるべき。みたいな感じ。

ざっくりとした内容

司法府の役割に関しては、法律関係の争いを法の適用によって終局的に解決できる場所であるという見方を整理している。

立法府との関係では宇都宮弁護士などが活躍したサラ金訴訟などが取り上げられる。知財訴訟でも間接的にルールを作っている様子を描いている。日本の裁判所の消極的ではない側面は大変興味深い。

また、一票の格差訴訟も取り上げられる。主に米国との比較から、日本の裁判所にはこの問題を解決する能力も役割も制度的に無いことを示唆している。

そして違憲判決の基準に関しては、その判決が広範な社会的な支持を得られるかという側面があることも補足意見などの分析から導き出す。

感想

正直結構面白い。司法府の役割・立法府との関係・司法府の民主的基盤のあり方・三権分立の考え方とかそうしたテーマに関して歴史的な経緯や諸外国の議論などが整理されており大変参考になる。

恐らく念頭にあるのは最近起こっている安保訴訟などだと思う。個人的にはあまり身近ではないが、著者は(恐らく)身近で発生している2013年頃?からのこの議論を見ていていろいろと歯痒い思いがあるのかもしれない。

 

個人的には、著者の言うように立法府でのルール形成を尊重していくべきだと思う。日本の憲法41条にある「国権の最高機関」という表現もあまり世界に類がないユニークな概念だと思うし。ただ、こういう訴訟があることで、集団的自衛権は処分性があるのかみたいなガラパゴス的!?議論も含め、立法府での議論を裁判のルールで補完出来る面白さはあると思う。

 

立法府の活発化に関しては、正直何ともいえない。確かに最近はもの凄くルールが変わる傾向があると思うが、それらの変更が選挙で全て問われている訳ではなく、どこまで社会的な議論を反映しているのか等民主的な正統性が分からないことがあるので。

 

日本の裁判所のような違憲審査に関する抑制的な方向性は、私は必ずしも否定的ではない。砂川事件で問われていたことを含め「政治的な」決定は主権者がすれば良いと思うからである。そういう意味で、アメリカの連邦最高裁判所の9人の判事が多くのルールを実質的に作っていることに関しては、社会的な議論が反映されないことや非民主的な独裁的な決定である可能性もあるので、私はあまり好きではない。この著書を読むことで、米国でもそうしたアメリカの連邦最高裁判所の抑制を志向するような議論もあるようで興味深かった。
だが一方で裁判所は社会的な「正しさ」を、多数決原理とは違うカタチで、実現する機関ではあると思う。そのような意味で違憲判決が社会的な広範な支持を得ること・裁判所の信頼を維持することなどの暗黙的な条件があるという指摘は重要だと思った。
著者の議論を完全に理解した訳ではないが、マイノリティーの権利を含め多数決の「正しさ」とは異なる社会的な「正しさ」を実現出来るような仕組みはやはり裁判所に必要だと思う。多分日本の裁判所が過去の歴史の精算が不十分で曖昧であることなどは、結果としての多数決の「正しさ」以外を実現出来ない性質を形成した側面があると思う。

 

裁判のルール形成に関しては、どちらかといえば裁判の事実認定能力を、もっと社会的な議論に繋げていくことが大事なのかなと思った。裁判所が「正しさ」を判断するというよりは、裁判所で明らかになった事実から社会が適切に課題を設定出来るような仕組みがあれば政策形成訴訟などもより価値を増すのではないだろうか。そういう意味で裁判のIT化で大量の裁判資料を機械学習するなど新しい裁判の可能性を追求してみたい。

 

また、上記の安保訴訟などの一部の(政策形成)訴訟による司法の対応コストを指摘するが、民事・刑事ともに事件数は減少しているので大丈夫なのではないだろうか。寧ろ、外観的には無駄な訴訟を含め、ありとあらゆる紛争が司法の場に持ち込まれるプラクティスが日本で実践されていくことは、中長期的に法の支配をより良いものにすると思う。
司法の対応コストに関する指摘は、ここ数十年間の約3000億円ほどの司法予算を前提としていないだろうか。裁判所が、庶民の様々な紛争を解決していく実績を積むことで、民主的な基盤を拡大し、司法予算の拡充も広範な支持を得る可能性もあると思う。
また、司法の対応コストを指摘するとき、司法府内部でコストが再生産されている可能性に言及しても良いのではないかと思った。というのも、裁判所データブックの統計を見ると民事・行政訴訟ともに中長期的な最高裁の新受事件が増加していると言えると思うからだ。勿論この点は様々な分析(司法統計の計測項目は少し荒いので限界はありそうだが)をしなければならないが、日本の裁判所が日本社会の(特に複雑な)紛争を解決できていないので、紛争が再生産されている可能性は重要だし興味深い。その程度の裁判所だからこそ安保訴訟のような一部の訴訟も対応が上手く出来なく、結果として司法がコストを払い対応しているという印象になってしまうのかなと。

いずれにせよ、この本で裁判所の役割を改めて考える機会を持てたことは良かった。

 

裁判の原点 :大屋 雄裕|河出書房新社